「私たちの世界は言葉で溢れていて、言葉は私たちにとっての対象を可能にする。言葉が表す意味や概念は、対象にアウトラインを与え、私たちは地−図の構図のうちにその存在を認識する。そもそもの興味は、糸と言葉の関連性にあった。text(文章)の語源がラテン語のtexere(織ること)であるように、織物は言葉や文章が発達するより前、意思の疎通や事象の記録を担う一つの言語体系だった。
私の制作は、草木で染めた数百色の絹糸を、その場で一本一本選択しながら経糸として配し、一本一本選択しながら緯糸として織っていくものだ。一度の制作に要する色糸の選択は数千から数万回におよぶ。言葉の選択や用い方にその人のひととなりが現れるように、そして一日の選択の繰り返しが今日の私やあなたを形作り、今までの選択の集積によって今の私たちがあるように、数千の色糸の選択が織物に現すのは私である。織物には私が行った全ての選択が記録されている。しかし私が織り終えたそれと対峙する時、そこに現れるはずの私は、形容し難く、捉えようのない何かであった。つまり織物には私であることと、私自身とのいいようのない距たりが存在していた。
私はこの制作において、色糸の選択者であり、糸を織る行為者であり、織物の制作者である。ここでの私という存在は、一見、織物に対する主体的な、全ての権限を持つ者のように見えるが、実は糸を選択をするのは私だけではない。糸もまた、私の選択を選択するのである。私は糸を掴み取るが、糸も私を掴みとる。私は糸を対象とする主体であり、糸も私を対象とする主体である。」黒田恭章
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